春宵十話 by 岡 潔



著者は「多変数解析函数論」という難題を解明した世界的な数学者で、1960年に文化勲章を受章し、随筆家としても有名らしい。1978年に亡くなってる方です。1963年に出版された本です。私はちっとも知りませんでしたが・・・(;´Д`)常識なさsgr

いくつかの随筆が集められたもののようで、ひとつのテーマごとにどこからでも拾い読める感じです。

著者は「人の情緒」というものを見失いつつある教育制度(と社会風潮)に危機感を持ち、「情緒」を育成する教育が必要だと訴えておられます。とても深い内容であり、今の私には全てのメッセージを汲みとることはできないと感じる本でもありました。

学者ですから、学問/教育に対して書いていますが、読んでいるうちに、これは「もしかしたら学問/教育をビジネスに置き換えても同じことが言えるかも知れないな」と感じることがしばしばありました。
これって最近の経営学や人材育成の本と同じこと言ってるじゃんって感じるはず。

例えば)↓

これは日本だけのことでなく、西洋もそうだが、学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えている気がする。実際は人が学問をし、人が教育したりされたりするのだから、人を生理学的にみればどんなものか、これがいろいろの学問の中心になるべきではないだろうか。(P.11)
→最近の経営学では「人」を中心に語られていますが、この本が出たのは1960年頃ですから、かれこれ50年も前にこのような視点で見ておられたのは、大変な知見だと思います。

芽なら何でもよい、早く育ちさえすればよいと思って育てているのがいまの教育ではあるまいか。ただ育てるだけなら渋柿の芽になってしまって甘柿の芽の発育はおさえられてしまう。(中略)
すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原理だと思う。(P.12)

人たるゆえんはどこにあるのか。私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。(P.13)

どうもいまの教育は思いやりの心を育てるのを抜いているのではあるまいか。そう思ってみると、最近の青少年の犯罪の特徴がいかにも無慈悲なことにあると気づく。これはやはり動物性の芽を早く伸ばしたせいだと思う。学問にしても、そんな頭は決して学問には向かない。(P.14)

人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか。人の心を知らなければ。物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ。つまり対象への細かい心配りがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいのものが欠けることにほかならない。(P.14)

頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。(P.15)→まさに「社会や人に幸せをもららす会社」と同じだと感じました。

よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。(P.33)

情操の中心の調和がそこなわれると人の心は腐敗する。(中略)情操の中心が人間の表玄関であるということ、そしてそれを荒らすのは許せないということ、これをみんながもっともっと知ってほしい。これが私の第一の願いなのである。(P.54)

【日本人と直観】(P.61)
直観には三種類ある。
第一種は人に実在感や肯定感を与えるもので、平等性智とも呼ばれる。自明を自明とみるのもこの直感で、つめたいとか暖かいとか知る感覚もこれが基礎になっている。だから普通に直観といわれるものに一番近いが、それだけではない。間違いを見つけて直すのもこの直観の力で、したがって信じるという働きがここから出てくる。本当にこの直観を働かせようとするとエネルギーを大いに消費する。私利私欲を除いて心の垢を払わねば出てこないもので、精神集中から精神統一へという昔の剣術家の努力もこの働きを十分出させるのを目指していた。
第二種の直観は、たとえば俳句や歌の良いしらべを良いと断定する直観である。スミレの花が良いと断定するのも同じ直観で、これがあるからこそ真善美が存在し得る。文化の世界に類型つまり同じものは一つもないのに、いいものはいい、悪いものは悪いとわかるのもこの直観による。
第三種の直観 - 立ち上がってごらんなさい。いまあなたは、ともかく立ち上がった。これは四百幾つという全身の筋肉が統一的に動いたから。これだけでも不思議と思えないだろうか?その動作によって表現されたのは、立ち上がろうとしたその発端の気持ちそのものなのである。無意識に言ったり、行動したりしたあとから、それに気づく、そんな直観で、自分の言動を振り返ってはじめて直観があったことに気づく。妙観察智といわれるのもこれである。

【日本的情緒】(P.69)
このくにで善行といえば少しも打算を伴わない行為のことである。
そこの人々が、ともになつかしむことのできる共通のいにしえを持つという強い心のつながりによって、たがいに結ばれているくには、しあわせだと思いませんか。ましてやかような美しい歴史を持つくににうまれたことを、うれしいとは思いませんか。
宮沢賢治に「サウイウフモノニワタシハナリタイ」というのがあるが、このくにの人たちは社会の下積みになることを少しも意としないのである。つとめてそうしているのではなく、そういうものに全く無関心だから、自然にそうなるのである。
全く私意私情を抜くことができれば大自然の純粋直観しか働かないことになって、これは決して誤ることがないからである。
「正直のこうべに神やどる」
「目に見えぬ神に向いて恥じざるは人の心のまことなりけり」(明治天皇)
フランスのジイドは「無償の行為」ということをいっている。これはこのくにの善行と似ているようだが、大分違う。このくにの善行は「少しも打算、分別の入らない行為」のことであって、無償かどうかをも分別しないのである。
はじめにいったこのくにの人たちの善行であるが、これは、大自然からじかに人の真情に射す純粋直観の力なのである。このくにに古くからいる人たちにはこの智力が実によく働くのである。それはたび重なる善行によって、情緒が実にきれいになっているからである。

【無差別智】(P.84)
覚醒時の意識には必ず通っており、理性の地金となっている。無差別智は純粋直観といってもいいし、平等性智といってもいいが、一言で言えば、自明を自明とみる力。疑問や不安もこの無差別智の働き。大脳前頭葉が関係している。私利私欲にかられているとこれに機能障害を来たす。道義をちゃんと教えておかないと学問のできない頭になる。無差別智は意志を働かせて動かすものでない。個人の意識よりもっと大きなものの意志があるとすれば、その意志のまにまに向こうから働いてくる。「おやっ?」と思うのは、決して自分からではない。

私の受けた道義教育】(P.87)
社会の秩序を保つのは道義心、法律の網の目は荒いからくぐれるが、道義の網はくぐれない。
祖父から「ひとを先にして、自分をあとにせよ」父は「金銭勘定は全くさせられず。ほしいものがあったら、理由をいわせて自分で買ってくる」祖母から「花」叔父は「考えるというくせは実は自分がお前に仕込んでやったのだ」と言われた。

感情を水に例えると、上の方で波風たってるところが、情緒。下の方で変わらずにいるのが情操である。

仏教では視覚、聴覚の中枢を五識と説いている。これをまとめるのが六識、六識をあらしめているのが、第七識でこれが情緒の中心。さらに仏教では第八識を生成発展を記録する部分、第九識は仏のいるところ。

【一番心配なこと】(P.101)
人の基本的なアビリティたる、他人の感情がわかること、物を判断すること、これらが個人個人に備わる教育システムが失われている。
謙虚でなければ自分より高い水準のものは決してわからない。せいぜい同じ水準か、多分それより下のものしかわからない。それは教育の根本原理の一つである。だからそういう態度でいれば必ず下に落ちてゆくもので、まず上に行くことはない。

そうだと思ったら何でも本当にやってみることである。徹底してやらねばいけない。そこでこそ理想を描くことができるのであって、社会通念に従って生きていこうなどと思っていて理想など描けるものではない。(P.146)

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